2015年02月26日
自分が主体か
○○で美味しいものを食べた、▽▽で素敵なものを買った・・・
これは、決して自由なのではなく、お金やモノに縛られているだけだ・・
そうおっしゃる方も、いるそうだ。なるほど・・・
私の考えは、こ高鼻うだ。
お金を尺度にしない見方。
お金があろうが、なかろうが、
美味しいものは命を延ばす反面、命を縮める。カロリー高いから。
モノは、買った分だけ、捨てるものが増える。今、流行のエコの逆。
客観的な現象として捉えてみた。
なので、決して、お金だけに縛られているわけではない。
また、欲求の充足を、「お金」という側面から見ると
お金がなくて、ガマンしているケースと
お金はあるけれど、別に、行動に移らないケースがある。
人に羨ましがられたくて、目に見えるカタチでお金を使うケースと、
自分の満足のために、人知れずお金を使うケースがある。
また、そのMIXバージョンで、外からは見えない使い方で、お金を人知れず使うが、
実は、心の中では、人の気を惹香港短租公寓 いたり、羨ましがられたり、人に勝ったりすることで、
満足を得るというケースもある。
お金を使うことによって、ストレス解消をする場合もある。
お金を何に使ったかではなく、お金そのものを使うことで満足しているケースだ。
お金をあまり使わずに、思いを遂げるのは、ハードなのかも知れない。
多くの場合、成功への近道は、やはりお金か。
お金とあわせて、頭、体、心を使うと効果倍増だが、
それら全てを使っても、できることと、できないことがある。
いずれにしても王賜豪醫生、
お金は、金額の多い少ないによらず
殺人事件や、ありとあらゆるトラブル、悩みの種にもなる。
お金に振り回される、ということは、お金があるなしにかかわらず、
人間の持っている業のひとつだ。
業が深すぎて、自滅しないように、各自、セルフコントロールする制御装置が、
人間に備え付けられているはずなのだが
時として、壊れている人もいる。
自分が主体か、お金が主体か。
お金を使っているのか、お金に使われているのか。
知らず知らず、お金に振り回されていることもある。
欲求の根本を見極めること。
自分の心の声をきくこと。
マリー・アントワネットは、キュートで大好きだが、
私の目標ではない。マネをしてみたいわけでもない。
享楽的生活は、本当に楽しいのか、
積み重ねた結果や、将来のこと、ただぼんやり考えるのではなく、
足をちゃんと地に着けて、しっかり考えてみるべきだ。
でも、マリー・アントワネットもそうだが、
環境や境遇によっては、いくつになっても、そういったことが出来ないケースもある。
学習の仕方そのものがわからないと、その効果も、見当もつかないだろう。
類は友を呼ぶので、同じような人ばかりが集まっている中では、
新しい考えや、見方、発想はできないだろう。
深く物事を考えてみると、また違う世界が広がると思うのだが・・・。
自分が、本当に求めているものは、何?
知っているのは、自分だけだ。
これは、決して自由なのではなく、お金やモノに縛られているだけだ・・
そうおっしゃる方も、いるそうだ。なるほど・・・
私の考えは、こ高鼻うだ。
お金を尺度にしない見方。
お金があろうが、なかろうが、
美味しいものは命を延ばす反面、命を縮める。カロリー高いから。
モノは、買った分だけ、捨てるものが増える。今、流行のエコの逆。
客観的な現象として捉えてみた。
なので、決して、お金だけに縛られているわけではない。
また、欲求の充足を、「お金」という側面から見ると
お金がなくて、ガマンしているケースと
お金はあるけれど、別に、行動に移らないケースがある。
人に羨ましがられたくて、目に見えるカタチでお金を使うケースと、
自分の満足のために、人知れずお金を使うケースがある。
また、そのMIXバージョンで、外からは見えない使い方で、お金を人知れず使うが、
実は、心の中では、人の気を惹香港短租公寓 いたり、羨ましがられたり、人に勝ったりすることで、
満足を得るというケースもある。
お金を使うことによって、ストレス解消をする場合もある。
お金を何に使ったかではなく、お金そのものを使うことで満足しているケースだ。
お金をあまり使わずに、思いを遂げるのは、ハードなのかも知れない。
多くの場合、成功への近道は、やはりお金か。
お金とあわせて、頭、体、心を使うと効果倍増だが、
それら全てを使っても、できることと、できないことがある。
いずれにしても王賜豪醫生、
お金は、金額の多い少ないによらず
殺人事件や、ありとあらゆるトラブル、悩みの種にもなる。
お金に振り回される、ということは、お金があるなしにかかわらず、
人間の持っている業のひとつだ。
業が深すぎて、自滅しないように、各自、セルフコントロールする制御装置が、
人間に備え付けられているはずなのだが
時として、壊れている人もいる。
自分が主体か、お金が主体か。
お金を使っているのか、お金に使われているのか。
知らず知らず、お金に振り回されていることもある。
欲求の根本を見極めること。
自分の心の声をきくこと。
マリー・アントワネットは、キュートで大好きだが、
私の目標ではない。マネをしてみたいわけでもない。
享楽的生活は、本当に楽しいのか、
積み重ねた結果や、将来のこと、ただぼんやり考えるのではなく、
足をちゃんと地に着けて、しっかり考えてみるべきだ。
でも、マリー・アントワネットもそうだが、
環境や境遇によっては、いくつになっても、そういったことが出来ないケースもある。
学習の仕方そのものがわからないと、その効果も、見当もつかないだろう。
類は友を呼ぶので、同じような人ばかりが集まっている中では、
新しい考えや、見方、発想はできないだろう。
深く物事を考えてみると、また違う世界が広がると思うのだが・・・。
自分が、本当に求めているものは、何?
知っているのは、自分だけだ。
2015年02月12日
学生時代
私は、いろんな人に見えるらしい。
学生時代(もちろん独身)は、「主婦」に見えたそうで、
公団住宅の申し込みハガキを手渡され、
そんなに所帯じみている嬰兒敏感のかと、がっかりした。
スタンダードな男子学生からは、敬遠された。
お化粧をし始めた頃は、
塗り加減というものがわからなかったようで、
オミズ業界の人に「働かない?」と声をかけられたことも、
現役オミズに間違えら高麗蔘れたこともある。
メーク、濃すぎた。
在宅時と、外出時の姿が違いすぎて、
同一人物だと気付かなかった人もいた。
少し落ち着いた頃には
とんがり頭のコピーライター氏に、
「フードコーディネーターってかんじ」、と言われた。
「保険の外交員? それとも、スナックのお姉さん?」
などと両極端なことを言公屋う人もいた。
自分の身の回りにいる人とイメージをダブらせているのか?
ある程度年齢が上がってくると
「学校の先生みたいやなぁ」と言われたこともある。
真面目な正論を言う私を煙たがっていたようだ。
年齢からみて、「社長」と思ってくれる人もいたりする。
(個人経営の事務所あたりでしょう)
一番合ってないと思うのが、「お医者さんですか?」
これは、ただただ、嬉しかった。
カルチャーセンターの受付女性には、
「社交ダンスの先生」と思われ、受講生の出席簿を手渡された。
「どこのお店のママ?」というのもあった。
おそらく場末の人気のない店か何かだろう。
国外でも
イギリスの片田舎では、中国人だと思われた。
(日本人を見たことが、なかったらしい・・・)
シンガポール、そして上海の時は、
現地人扱いされ、街の中で普通に現地語でペラペラ話しかけられた。
(いったい何語で、何を言ってたんだろう?)
香港では、
香港在住に見えたようで、現地銀行の口座開設の勧誘を受けた。
(「明日、帰国するから無理」、といって解放してもらった)
サンディエゴにおいては、
在住ヒスパニックや、東南アジアの人だと勘違いされた。
(いくら英語が、わかってないからって・・・)
ちょっと現地に馴染みすぎか?
国籍不明・・・。
要は、どれも全く当たってないということだ。
人は、いい加減である。
外見は内面の一番外側というけれど、
見る人側の思い込みのせいで
大ハズレなことも大いにある。
今は何に見えるのだろう?
この年になれば、きっと素のままの自分が
外見に出ているに違いない。
ちょっとコワイような気がする。
丸い丸い、どこにでもいる
とぼけた凡人。
特徴がないのが、特徴だ。
それぐらいなら、まだ、マシかも知れない。
学生時代(もちろん独身)は、「主婦」に見えたそうで、
公団住宅の申し込みハガキを手渡され、
そんなに所帯じみている嬰兒敏感のかと、がっかりした。
スタンダードな男子学生からは、敬遠された。
お化粧をし始めた頃は、
塗り加減というものがわからなかったようで、
オミズ業界の人に「働かない?」と声をかけられたことも、
現役オミズに間違えら高麗蔘れたこともある。
メーク、濃すぎた。
在宅時と、外出時の姿が違いすぎて、
同一人物だと気付かなかった人もいた。
少し落ち着いた頃には
とんがり頭のコピーライター氏に、
「フードコーディネーターってかんじ」、と言われた。
「保険の外交員? それとも、スナックのお姉さん?」
などと両極端なことを言公屋う人もいた。
自分の身の回りにいる人とイメージをダブらせているのか?
ある程度年齢が上がってくると
「学校の先生みたいやなぁ」と言われたこともある。
真面目な正論を言う私を煙たがっていたようだ。
年齢からみて、「社長」と思ってくれる人もいたりする。
(個人経営の事務所あたりでしょう)
一番合ってないと思うのが、「お医者さんですか?」
これは、ただただ、嬉しかった。
カルチャーセンターの受付女性には、
「社交ダンスの先生」と思われ、受講生の出席簿を手渡された。
「どこのお店のママ?」というのもあった。
おそらく場末の人気のない店か何かだろう。
国外でも
イギリスの片田舎では、中国人だと思われた。
(日本人を見たことが、なかったらしい・・・)
シンガポール、そして上海の時は、
現地人扱いされ、街の中で普通に現地語でペラペラ話しかけられた。
(いったい何語で、何を言ってたんだろう?)
香港では、
香港在住に見えたようで、現地銀行の口座開設の勧誘を受けた。
(「明日、帰国するから無理」、といって解放してもらった)
サンディエゴにおいては、
在住ヒスパニックや、東南アジアの人だと勘違いされた。
(いくら英語が、わかってないからって・・・)
ちょっと現地に馴染みすぎか?
国籍不明・・・。
要は、どれも全く当たってないということだ。
人は、いい加減である。
外見は内面の一番外側というけれど、
見る人側の思い込みのせいで
大ハズレなことも大いにある。
今は何に見えるのだろう?
この年になれば、きっと素のままの自分が
外見に出ているに違いない。
ちょっとコワイような気がする。
丸い丸い、どこにでもいる
とぼけた凡人。
特徴がないのが、特徴だ。
それぐらいなら、まだ、マシかも知れない。